追憶

『夜の事だった、彼女の心の中に
 彼女しかいない 彼女ひとりだけ
 涙で言葉をつまらせて
 私はあの人の側で この苦しみの助けを祈った』


哀しいほどに美しい星が輝く夜だった。
いつものように彼女が、私の帰りを待っているのが見えた。
その日の夜は、近づく季節を知らせるように
一段と肌に突き刺さる寒さが身に沁みていた。

殿」

張遼が声を掛けると、彼の愛おしい恋人は
弾かれたように顔を上げて微笑みを向けてくれる。
途端、ちくりと張遼の胸が痛んだ。
しかしそれを表情に出す事はなく、困ったように
静かな笑みを溢すだけだった。
張遼の寂しそうな笑みに、は気付くことなく
小走りに駆け寄ってくる。
以前、に送った鈴の耳飾が軽やかに鳴る。

「文遠様」

ああ、この声を。この笑顔を。
私はもう聞く事が出来ないのだろうか。
こんなにも、愛おしいのに。
こんなにも、必要としているのに。

殿・・・寒かったであろう?そのような軽装で」
「いいえ、文遠様。大丈夫よ」

そんなに待っていなかったから、と頬を赤に染めて彼女は言う。
張遼は耐え切れなくなって、の華奢な肩を抱いた。
力強く。彼女を閉じ込めてしまえるように。

「文遠様・・・?どうなさったのです。もしや御気分でも優れませんか?!」

抱きしめながらもは、張遼の肩越しに不安げに言った。
無意識に離れようとするを離すまいと、張遼は腕に一層力を込めた。

殿。どうか聞いて欲しい。今からあなたに言わねばならぬ事があるのです」
「・・・」

は何も言わなかった。
彼女の長い睫毛が、静かな音を立てて伏せられたのを感じた。

殿。私は次の戦で曹操軍と戦う。かの曹操は劉備軍と連合し軍を率いている
 我々の士気は低迷する一方にあり。苦戦を強いられるだろう」

はただ黙って、張遼の言葉を聞いていた。
ああ、この人は。
こんなにも、優しいのに。
こんなにも、必要とされているのに。

「呂布殿は、奥方とご子息殿を下ヒへ移すと仰った。それでだが、呂布殿から、殿に
 奥方様たちの身の回りの世話をして欲しいと言付かった・・・」

苦しそうに、搾り出すように。
張遼は優しい。
顔は見えないが、きっと今にも泣き出しそうに
顔を歪めているに違いない。
はそう思うと、自分でも不思議な程に心が落ち着いている事に気が付いた。

殿・・・ここにいるよりは、その方が安全なのかも知れぬ
 何も永久の別れではないのだ。そなたの身が安全ならば、私も安心して・・・」
「文遠様。そのような悲しいお声をなさらないで。私なら大丈夫です」

『その美しい瞳を伏せながら彼女は言った
 あなたの右手を私の胸にあててください、あなたを慰めます
 私はあなたを愛し、あなただけを愛します』

「私も、あなた様のご無事をいつもお祈り致しております」
 
『こう言って彼女は恋心に身を震わせ
 甘く優しいしぐさで
 私の左肩にその美しい顔をそっと置いた

 もし喜びの後に苦悩が待っているのなら
 もしその時に何の反応もなかったら
 ああ、あの時ほど死をいとおしむ事はなかっただろう』


下ヒ城は曹操・劉備の連合軍により大敗。
呂布は斬首され、張遼は曹操軍に降りる。

『』内の言葉は、Bellini作曲 La Ricordanza(追憶)より抜粋
09.03.10